【アウトソーシングほっとニュース】AI時代を乗り越える「リスキリング推進」のアプローチ 〜社員の潜在能力を引き出す人事戦略〜
厚生労働省は令和8年9月29日、「AI等技術革新が進む中での労働市場の現状と課題」をテーマとした「令和8年版 労働経済の分析(労働経済白書)」を公表しました。本記事では、このうちAIの利用が労働市場に及ぼす影響とAI時代の人材育成の課題を考察した第Ⅱ部の内容を、中小企業の人事労務の視点から読み解いていきます。
1. はじめに:いま企業に求められる「リスキリング」の本当の意味
AIの進化によって、産業の形も、仕事に求められるスキルも、かつてない速さで移り変わっています。人事労務のご担当者からも、「AIの時代に、社員にどんなスキルを身につけてもらえばいいのか」というご相談をいただくようになりました。
ただ、いま企業が取り組むべきリスキリング(学び直し)の本当の意味は、「AIに仕事を奪われます」と危機感をあおって、社員に無理やり学ばせることではありません。目指したいのは、技術革新という変化を前向きに受けとめ、社員一人ひとりのキャリアの価値を高めながら、企業の競争力も一緒に引き上げていくことです。リスキリングを、会社と社員の「ともに成長する機会」として捉え直すことにあります。
「制度は作ったのに、社員が学んでくれない」「どんな支援が本当に効くのか見えない」。そうした悩みに寄り添いながら、労働経済データをもとにした分析と、今日から試せる具体的なヒントをお届けします。
2. データで見る、日本の学び直しの現在地
OECDなどの国際統計を見ていくと、日本の学び直しをめぐる構造的な課題と、世界トップクラスを誇る強みという、対照的な二つの姿が浮かび上がってきます。
日本の学び直しの現状(課題) | 日本の労働者のポテンシャル(強み) |
【大学等で学ぶ社会人の少なさ】 | 【世界最高水準の基礎的スキル(PIAAC)】 |
【先端技術・理系分野での学びの少なさ】 | 【若年層の高い成長意識と適応力】 |
こうして並べてみると、日本の労働者は決して「学ぶ力や意欲が足りない」わけではないことが分かります。基礎力は世界トップクラス、若い世代の成長意欲も欧米と変わりません。それでも学び直しが進まない背景には、個人のやる気ではなく、企業や社会の側に大きな阻害要因があると考えるべきでしょう。次に、その具体的な障壁となっている3つの壁を見ていきます。
3. 社員の学びを阻む「3つの壁」 ― 時間・情報・費用
社員がリスキリングに踏み出せない現状を、「本人のやる気が足りない」で片づけてしまうと、会社として打つべき手はいつまでも見えてきません。データが示しているのは、個人の努力だけでは越えられない、環境面・構造面での制約の存在です。
壁 | 社員の本音 | データが示す実態 |
第1の壁「時間」 | 「仕事や家族のことで、学ぶ時間がとれない」 | 学び直しをしない理由の第1位。59.8%と、米国47.6%、英国43.4%、OECD平均47.6%を大きく上回る。 |
第2の壁「情報」 | 「そもそも、何を学べばいいのか分からない」 | 特に若年層で深刻。どのスキルを、どこで、どう学べばよいかの指針が得られていない。 |
第3の壁「費用」 | 「受講費用を自分で出すのは、正直きつい」 | 受講費用や受講期間中の生活コストを個人が全面的に負う構造が、学び始めのハードルを上げている。 |
なかでも最大の障壁が時間です。労働政策研究・研修機構(JILPT)の調査でも、全年代で「仕事が忙しく時間が取れない」「家事・育児で勉強時間がない」が上位を占めており、日々の忙しさが学びの機会を物理的に奪っている様子がはっきりと見えてきます。
4. 理系・現場人材の育成と、「評価・処遇」の大切さ
AI時代において、先端技術の開発を担う理系人材や、2040年に向けて深刻な不足が心配される現場人材(エッセンシャルワーカーなど)をどう確保し育てるかは、企業の持続性を大きく左右します。ただ、現状の教育環境や社内の評価・処遇の仕組みには、気になる歪みがあります。
理系人材 ― 学ぶ場の少なさと、処遇の歪み
日本の大学における理系学部の割合は全体の12%ほどにとどまり、社会人が理系スキルを学び直す場そのものが限られています。世界経済フォーラム(WEF)による「教育機関での学びと産業界のニーズの合致度(1〜7段階)」でも、日本は4.4と、米国(5.6)、ドイツ(5.4)、G7平均(4.8)を下回っています。
さらに見過ごせないのが処遇の歪みです。PIAACのデータによると、理系分野の大学院を修了した就業者でも、日本は高所得層に属する割合が米国・英国・ドイツに比べて著しく低く、中央値付近に偏っています。職能給・年功的な賃金体系が、高い専門スキルの市場価値を処遇に反映しきれていないのです。
現場人材 ― 供給の限界と、ミスマッチの実態
教育機関の学生・生徒数を見ると、大学が297.2万人であるのに対し、現場人材を育てる専門学校は56.9万人、専門学科高校は58.7万人です。外部からの新卒供給が物理的に足りない以上、今いる社員の社内リスキリングと配置転換が欠かせません。
公的職業訓練でも、ミスマッチが起きています。応募倍率は事務職系が94.0%(就職率70.3%)と人気が集中する一方、介護・医療・福祉は66.3%(就職率83.4%)、建設関連は69.3%(就職率74.1%)と応募不足です。求職者のホワイトカラー志向が強いからこそ、企業側が現場職の魅力化に取り組み、自社の中で現場職へ移れるキャリアパスを示すことが、大きな差別化になります。
ただし、事務職から現場職への転職割合は6.8%と高くありません。その最大の理由は、転職した人の約4割が「賃金が減少した」と答えている現実にあります。
5. 人事担当者が今日からできる「伴走型リスキリング」の進め方
必要なのは、eラーニングのアカウントを配って「あとは自由に学んでください」と任せきりにすることではありません。社員のキャリア自律に寄り添い、制度と運用の両面から障害を取り除いて一緒に歩く伴走型人材育成への転換です。今日から取り組める具体策を、3つの柱に整理してみました。
支援の柱 | 具体的な打ち手 |
① 時間の支援 | ・週2時間などのリスキリング集中タイムを業務扱いにする ・教育訓練休暇制度(ラーニング・リーブ)を導入する ・すきま時間で学べるマイクロラーニングを活用する |
② 情報の支援 | ・自社が必要とするスキルをスキルマップとして見える化する ・定期的なキャリアコンサルティングの機会をつくる ・身につけたスキルに応じた処遇・キャリアパスを明確にする |
③ 費用の支援 | ・受講費用の全額・一部補助、資格取得手当を設ける ・人材開発支援助成金など公的制度を積極的に活用する ・教育訓練給付制度など個人向け支援の情報を届ける |
「人材開発支援助成金」のうち、DX・GX分野の学び直しに使える「事業展開等リスキリング支援コース」は、令和4年度から令和8年度(2026年度)までの時限措置とされています。つまり、今年度が一つの節目です。活用をお考えの場合は、訓練開始日の前月末日までに計画届を提出する必要がありますので、早めのご準備をおすすめします。令和9年度以降の取扱いは、現時点では未定です。
さいごに
社員のリスキリングへの投資は、一時的なコストではありません。社員が新しいスキルを身につけ、その成果がきちんと評価されて処遇の改善につながる。そんな好循環が生まれれば、企業の生産性の向上、職場の魅力の向上、そして優秀な人材の定着へと、確実につながっていきます。
まずは、業務時間内の学習枠を検討してみる、自社に必要なスキルを書き出してみるといった、明日からできる小さな一歩から始めてみませんか。
出典:令和8年版 労働経済の分析〔概要〕
令和8年版 労働経済の分析〔本文〕
社会保険労務士法人エスネットワークス
特定社会保険労務士M・K
事業会社での人事労務キャリアを活かし、社会保険労務士として活動中。労働法をめぐる人と組織に焦点を当てる「生きた法」の実践をモットーとし、専門家の立場からセミナーや講演を通して、企業に“予防労務”の重要性を呼び掛けている。日本産業保健法学会会員。