【社エス通信】2026年10月号 「治療と就業の両立支援」努力義務化から半年:経営者が今、踏み出すべき次の一手
目次

1. 努力義務化から半年、現場で起きている静かな変革と経営の責任
経営者の皆様、「治療と就業の両立支援」という言葉を、ここ数年で何度か耳にされたことがあるのではないでしょうか。実はこのテーマ、企業に求められる位置づけが、この1年ほどで大きく変わりました。
ガイドラインから努力義務へ ― 10年かけて進んだ「格上げ」
出発点は、平成28年(2016年)2月に厚生労働省が策定した「事業場における治療と仕事の両立支援のためのガイドライン」でした。医療技術の進歩によって、かつては入院や長期療養が当たり前だった病気でも、通院しながら働き続けられるケースが増えてきました。そうした変化を受けて、企業がどう向き合えばよいのかの道しるべを示したものです。
ただ、このガイドラインはあくまで「参考にしてください」という性質のもので、法的な裏づけまではありませんでした。その結果、熱心に取り組む企業と、まったく手つかずの企業との間で、対応の差がどんどん開いていったのです。病気を抱えた従業員が働き続けられるかどうかが、「たまたま勤めていた会社の姿勢」で決まってしまう。そうした状態が、長く続いてきました。
こうした状況を受けて、令和7年(2025年)の労働安全衛生法の改正により、治療と就業の両立支援が、ついに事業者の「努力義務」として法律に位置づけられることになりました。これに合わせて令和8年(2026年)2月には指針が改正・告示され、令和8年4月1日から施行されています。長らく参考資料だったものが、法律が企業に求めるものへと格上げされました。ここが、今回の大きな節目です。
そして、施行から半年。この半年で、企業を取り巻く状況は少しずつ、しかし確実に変わりつつあります。単なる「法令遵守(コンプライアンス)」という段階を超えて、組織の存続そのものを左右する「人的資本経営」の真価が、いよいよ問われる段階に入ってきていると感じています。
少子高齢化が招く「疾病リスクの日常化」
現在、日本の就労世代(20〜64歳)で、新たにがんと診断される方は年間およそ24万人にのぼります。これは全がん罹患者の約4分の1にあたり、生涯で見れば、就労世代の7人に1人ががんに罹患するという推計もあるほどです。さらに、脳卒中などの脳血管疾患で通院している就労世代も、約29.5万人にのぼります。
少子高齢化と定年延長が進む中、「病気になったら離職・引退」という、これまでの考え方は、経営判断としてはもう通用しなくなっています。熟練したスキルと顧客基盤を持つ40代・50代のキーマンが、病気を理由に職場を去ってしまう。そのとき企業が失う採用・教育コストや、目に見えない資産は、年収の2〜3倍にのぼるという試算もあるほどです。
「努力義務」という言葉の裏にある、経営のレジリエンス
「まだ努力義務だから」と静観していると、実はかなり深刻な経営リスクを抱え込むことになりかねません。病気を抱えた従業員への配慮を欠いてしまうと、次のような負の連鎖が起きやすくなるからです。
①採用競争力の低下:今の労働市場、特に優秀な若手や中堅層は、「万が一のときに自分や家族を守ってくれる会社かどうか」という視点で、企業を厳しく見極めています。
②既存社員のエンゲージメント低下:治療と仕事の間で苦しんでいる同僚が放っておかれる姿を見ると、周囲の社員は「次は自分の番かもしれない」と不安を募らせ、会社への信頼を失っていきます。
③安全配慮義務違反という法的リスク:必要な情報を集めないまま、無理な就業を続けさせて病状を悪化させてしまうと、民事上の損害賠償責任(安全配慮義務違反)を問われる可能性があります。
両立支援は、決して優しさだけの話ではありません。多様な人材がその力を最大限に発揮し続けられる環境を整える、いわば攻めの投資であり、組織のレジリエンス(回復力)を築くための経営戦略そのものだと捉えていただければと思います。
2. 支援を阻む「三者間の情報格差(情報の非対称性)」の解剖
なぜ、多くの現場で両立支援がうまく機能しないのでしょうか。その本当の原因は、労働者・企業・医療機関という三者の間にある、構造的な「情報の格差(ミスマッチ)」にあります。
構造的ミスマッチの正体
それぞれが異なる真実を持ちながら、それが互いに共有されないまま、判断が下されてしまっています。
項目 | 労働者(患者) | 企業(経営者・人事) | 主治医(医療機関) |
保有する情報 | 病状の主観、治療の辛さ、周囲への負い目 | 業務の負荷、職場の人員体制、配慮の限界 | 医学的所見、標準治療、一般的な就業制限 |
欠落している情報 | 会社にどこまで話して良いか、社内制度 | 医学的根拠に基づく影響、安全配慮の範囲 | 具体的な現場の業務内容(立ち時間、重量物等) |
抱えている不安 | 「病気を伝えたらクビになるのでは?」 | 「働かせすぎて倒れたら誰が責任を取る?」 | 「現場の過酷さを知らずに許可を出せない」 |
心理的障壁が招く「情報の断絶」
中でも特に深刻なのが、労働者の方が抱える心理的な壁です。「病気のことを伝えたら、不利益な扱いや降格をされるのでは」という不安から相談をためらってしまうと、企業側は病状を把握できないまま、適切な安全配慮を行うことが難しくなってしまいます。
また、主治医が「軽作業なら可能」という診断書を出すケースもよく見られますが、ここにも見落としがちな落とし穴があります。医師がイメージする軽作業はデスクワークかもしれない一方で、現場では4時間の立ち仕事を軽作業と呼んでいるかもしれません。こうした認識のズレが、復職直後の再発や病状の悪化、ひいては早期離職につながってしまうのです。
3. 社会保険労務士が提供する「情報の橋渡し」と具体的な支援フロー
この複雑な情報の格差を解消し、三者の間に「信頼できるやり取りの型」をつくっていくのが、組織開発の知見を持つ社会保険労務士(社労士)の役割です。
「企業の現実」を前提とした着地点の模索
社労士の一番の強みは、人員体制の厳しさや代替要員を確保する難しさといった、「企業の厳しい現実」を熟知している点にあります。理想論ではなく、その会社の実情に合わせた、無理のない解決策を一緒に考えていきます。
【ある建設会社での一場面】
社長:現場監督のAさんが脳卒中で倒れてしまって……戻りたいと言ってくれているが、現場で何かあったら責任が取れない。辞めてもらうしかないんだろうか。
社労士:社長、まだ焦らないでください。Aさんの経験は御社にとって大切な財産です。まずは「勤務情報提供書」を主治医の先生にお送りして、現場の段差や立ち時間、管理業務の割合を具体的にお伝えしてみましょう。そのうえで、いきなりフルタイムに戻すのではなく、『試し出勤制度』を使って、まずは週3日、午前中だけの現場巡回から始めるプランはいかがでしょうか。
社長:そんな段階的な戻し方があるんですね。それなら現場も受け入れやすいし、リスクも管理できそうです。
厚生労働省指針に基づく「対話の仕組みづくり」
社労士は、次のようなプロセスを通じて、会社の中に対話の仕組みそのものを実装していきます。
①相談窓口の明確化とプライバシー保護:「ここで相談しても不利益を被らない」という心理的安全性を担保します。
②両立支援プランの策定:主治医の意見と本人の意向、そして職場の受け入れ能力を統合した、オーダーメイドのロードマップを作成します。
③リスクヘッジとしての制度設計:試し出勤制度(職場復帰の可否を判断するための検証期間として活用)や、時差出勤・在宅勤務(通院や副作用の波に合わせた柔軟な働き方)を取り入れます。
4. 医療連携の成否を決める「勤務情報提供書」の活用術
主治医の先生から実際に役立つ意見を引き出し、会社を法的リスクから守るための、最も心強いツールが「勤務情報提供書」です。これを単なる書類の一つとしてではなく、経営を守るガードレールとして位置づけていただきたいと思います。
医師の判断を支える「言語化」の重要項目
主治医の先生は、現場の実態を直接ご存じないことがほとんどです。社労士がヒアリングシートを使いながら、次のような項目を、具体的な言葉にして主治医の先生にお伝えしていきます。
・物理的負荷:重量物(何kgか)の取扱頻度、階段昇降の有無、立ち時間の長さ。
・勤務環境:拘束時間、時間外労働の頻度、夜勤・出張の有無。
・移動手段:通勤経路の混雑度、車の運転の有無(脳卒中後の視覚障害や薬の副作用を考慮)。
・配慮案の提示:「休憩時間の調整は可能」「短時間勤務が可能」など、企業が提示できる上限を可視化します。
企業の「安全配慮義務」の防波堤
会社が「できる配慮の限界」をあらかじめはっきり示しておくことは、従業員本人が無理をしすぎて病状を悪化させてしまうことを防ぐだけでなく、万が一の際に「やるべきことはやった」という法的な備えにもなります。社労士が間に入ることで、従業員の方も「会社が自分の復帰を真剣に考え、安全を確保しようとしてくれている」と感じられるようになり、前向きな気持ちで復帰に臨めるようになります。
5. 疾患別の特性を捉えたマネジメント:がん・脳卒中のケーススタディ
支援の仕方に、画一的な正解はありません。病気ごとに異なる治療のサイクルや後遺症のリスクを理解しておくことが、戦略的なマネジメントの第一歩になります。
① がん治療:通院と副作用の「波」を管理する
現在、がんの入院期間は大幅に短くなっており(平均14.4日)、外来に通いながら「化学療法(抗がん剤治療など)」を続けるケースが主流になっています。
・マネジメントのポイント:抗がん剤治療は、通常1〜2週間の周期(コース)で繰り返されます。投与直後は倦怠感や吐き気、末梢神経障害といった副作用が出やすく、その後、体調が回復していく時期が周期的に訪れます。
・配慮の工夫:副作用が出やすい時期にだけテレワークや時間単位の年次有給休暇を活用するなど、柔軟なシフトを組んでみてください。また、分子標的薬や免疫チェックポイント阻害薬といった新しい治療法では、皮膚障害や倦怠感など特徴的な副作用が出ることもあるため、産業医や社労士と連携しながら見守っていくことが欠かせません。
② 脳卒中:長期リハビリと回復の可能性を見守る
脳卒中は、発症直後のリハビリが回復の鍵を握ります。若い世代であれば、およそ7割の方が自立した日常生活を送れるまで回復すると言われています。
・マネジメントのポイント:職場復帰(復職率はおよそ50〜60%)のタイミングは、発症から3〜6か月後、あるいは1年〜1年半後と、比較的長期にわたることが多いです。
・配慮の工夫:発症直後、気持ちが動揺して「早まった退職」を選んでしまわないよう支えることが、何より大切です。「戻れる場所がある」というメッセージを伝えながら、高次脳機能障害(記憶力の低下や注意力の散漫さなど)がないかを確認しつつ、まずは単純な作業からの「試し出勤」で少しずつ負荷を上げ、長期的に見守っていきましょう。
どちらのケースでも、周囲の同僚への負担を忘れてはいけません。特定の社員に業務が偏らないよう、社労士のアドバイスを受けながら業務分担を見直し、組織全体で支え合う文化を育てていきましょう。
6. まとめ:誰もが安心して働ける組織こそが、最強の経営基盤となる
努力義務化から半年が経った今こそ、経営者の皆様には、両立支援をコストとしてではなく、企業の持続可能性を高めるための「戦略的投資」として、あらためて捉え直していただきたいと思います。
本記事でお伝えした「三者連携」と「社労士による情報の橋渡し」は、単に従業員を助けるためだけのものではありません。予測できないリスクにも強い組織、つまり人財を手放さない組織をつくっていくプロセスそのものです。
経営者が明日から指示できる3つの初動アクション
① 基本方針を言葉にして伝える:「わが社は、病気になっても働き続けられる組織を目指します」というトップの想いを、ぜひ社内に向けて明文化し、発信してみてください。
②相談窓口と対応の流れを点検する:実際に社員が倒れてしまったとき、誰に連絡し、どのような手順で主治医と連携するのか。社内マニュアルがあるかどうか、あらためて確認してみましょう。
③専門家と一緒に制度を見直す:今の休暇制度や就業規則が、最新の治療サイクル(通院の頻度など)に対応できるものかどうか、専門家である社労士と一緒に、一度総点検してみてください。
「自分もいつか当事者になるかもしれない」という不安を、「この会社なら大丈夫だ」という安心感に変えていくこと。その心理的安全性を築いていくことこそが、人手不足の時代の採用市場を勝ち抜き、持続可能な成長を実現するための、何よりの経営基盤になります。
経営者の皆様、一歩先を行く組織づくりを、ぜひ今から始めていきましょう。
出典:厚生労働省「治療と就業の両立支援指針」
この記事を書いたのは・・・

社会保険労務士法人エスネットワークス
特定社会保険労務士M・K
事業会社での人事労務キャリアを活かし、社会保険労務士として活動中。労働法をめぐる人と組織に焦点を当てる「生きた法」の実践をモットーとし、専門家の立場からセミナーや講演を通して、企業に“予防労務”の重要性を呼び掛けている。日本産業保健法学会会員