【社エス通信】2026年9月号 労働安全衛生の実態から考える、これからの「人が定着する職場」づくり
目次

1. はじめに:今、日本の職場で何が起きているのか
厚生労働省は8月7日、「令和7(2025)年労働安全衛生調査」の結果を公表しました。
これは、全国の常用労働者10人以上を雇用する民営事業所14,050事業所と、そこで働く労働者・派遣労働者18,553人を対象に行われ、8,054事業所・8,393人から回答を得た(有効回答率57.3%・45.2%)、令和7年10月31日時点の調査です。
この結果は、単なる統計データの羅列ではありません。そこには、現場で働く一人ひとりの心の揺らぎや将来への不安、そして変化する労働環境への戸惑いが鮮明に映し出されています。データは、言葉にならない従業員の心の声そのものなのです。
社労士として多くの会社を見てきた立場からお伝えしたいのは、労働安全衛生を守らなければならないコストと捉える時代は、もう過去のものだということです。これからの時代、労働安全衛生への注力は、人材流出という最大の経営リスクを防ぎ、組織の活力を生む最も投資対効果の高い戦略となります。
本記事では、最新の調査結果を読み解きながら、一歩先を行く職場づくりのヒントを人事の皆さまと一緒に探っていきたいと思います。
2. メンタルヘルス不調の「リアル」と、事業所規模による格差
職場のメンタルヘルス対策は、今や企業の存続を左右するテーマです。調査によると、過去1年間にメンタルヘルス不調により1か月以上の休業、あるいは退職した労働者がいる事業所の割合は全体で13.5%となっています。
ここで注視したいのが、規模が大きくなるほど不調者の発生率が高まるという構造的な課題です。
・1,000人以上の事業所:92.9%
・500~999人の事業所:89.7%
・10~29人の事業所:6.8%
1,000人規模以上の事業所では、実に9割を超えて不調者が発生しています。これは、組織の規模が大きくなるほど、一人ひとりの変化に目が届きにくくなる現実を物語っているのではないでしょうか。大規模組織では、個人の頑張りやレジリエンス(心の回復力)だけに頼るのではなく、組織全体でどう支えるかが問われます。特に、現場のマネージャーが部下の変化に気づき、声をかける「ラインケア」の質こそが、組織全体の強靭さを決定づける鍵となります。
また、業種別で見ると情報通信業(37.4%)や金融・保険業(24.3%)の高さが際立ちます。不調による休業者が発生した際、代替要員の確保や専門ノウハウの流出、残されたメンバーへの負荷増大による連鎖的な離職といった損失は計り知れません。早期発見の仕組みづくりは、単なる福利厚生ではなく、経営上の経済的メリットを生む防衛策なのです。
もう一つ、見逃せないデータがあります。就業形態によって、従業員が抱えるストレスの中身はまったく違うということです。正社員は「仕事の量」(43.7%)が最大の悩みである一方、契約社員では「対人関係(セクハラ・パワハラを含む)」が19.6%から37.8%へと急増し、パートタイム労働者でも「対人関係」(38.5%)がトップに。そして派遣労働者では「雇用の安定性」(40.6%)が最も大きな不安として挙がっています。同じ職場だから同じケアで大丈夫ではなく、雇用形態ごとに悩みの質が違うことを前提に、声のかけ方を変えていく視点が求められます。
3. 産業保健の取組状況:実施していること、まだ足りないこと
現在、何らかの産業保健活動に取り組んでいる事業所は全体で87.9%。多くの企業が「健康経営」への一歩を踏み出しています。事業所規模別にみると、50~99人規模で97.4%、30~49人規模で92.2%、10~29人規模でも84.8%と、規模を問わず着実に浸透してきていることがうかがえます。
主な実施内容は以下の通りです。
・健康診断結果に基づく保健指導:76.0%
・メンタルヘルス対策(相談体制の整備、ストレスチェック結果を踏まえた職場環境改善等):72.9%
ここで、もう一歩踏み込んでご紹介したいのが、ストレスチェックのその後です。ストレスチェックを実施している事業所のうち、結果を部署・課などの集団ごとに分析している事業所は74.9%、さらにその分析結果を実際に活用している事業所は78.1%にのぼります。活用の中身を見ると、「残業時間削減・休暇取得に向けた取組」(49.9%)が最も多く、次いで「業務配分の見直し」(32.6%)、「人員体制・組織の見直し」(32.4%)と続きます。つまり、「ストレスチェックをやって終わり」ではなく、そこから具体的な業務改善につなげている企業が着実に増えているということです。せっかく実施するストレスチェックですから、集団分析と現場改善までをセットで考えていただきたいところです。
一方で、今後の伸び代として注目したいのが、新しい働き方や個別事情への対応です。例えば、テレワーク労働者への健康相談体制はわずか6.8%、化学物質の管理も11.8%に留まっています。また、「私傷病(がんや精神障害等)を抱える労働者の治療と仕事の両立支援」も26.7%と、まだ十分ではありません。
50人未満の事業所、特に10~29人規模で取り組んでいない割合が14.1%ある現状に対し、担当者の皆さまは「うちはリソースが足りないから」と負い目を感じる必要はありません。むしろ、こうした他社がまだ着手できていない「テレワーク支援」や「両立支援」を丁寧に行うことこそが、小さな組織が優秀な人材を惹きつけるための大きな武器になります。
4. 転倒防止と「エイジフレンドリー」な職場づくり
少子高齢化に伴い、今や事業所の約8割(80.6%)に60歳以上の労働者が在籍しています。しかし、その安全対策には危うい偏りが見られます。
・物理的対策(手すりの設置、段差解消など):77.5%が実施
・身体的要因を考慮した対策(運動指導、骨密度チェックなど):5.6%~14.3%
ハード面(設備)の整備は進んでいますが、ソフト面(働く人の身体機能への配慮)は著しく遅れています。「ロコモ(ロコモティブシンドローム)」という言葉をご存じでしょうか。加齢に伴って筋力やバランス能力が衰え、歩行や日常動作に支障が出てくる状態のことで、転倒リスクに直結します。設備を整えるだけでなく、こうした身体機能の変化にも目を向けることが、次のステップになりそうです。
また、厚労省が提唱する「エイジフレンドリーガイドライン」(高年齢労働者が安心して安全に働ける職場環境づくりを推進するための指針)の認知度は24.8%と、まだまだ低い水準にとどまっています。さらに、このガイドラインを知っている事業所のうち、実際に高年齢労働者向けの労働災害防止対策に取り組んでいるのは20.4%です。取組内容を見ると、「高年齢労働者の特性を考慮した作業管理(持久性・筋力の低下等を踏まえた作業内容の見直し)」が61.0%と最も多く、次いで「個々の高年齢労働者の健康や体力の状況に応じた対応(運動指導、栄養指導、保健指導など)」が45.4%となっています。
しかし、これをチャンスと捉え直してください。このガイドラインを率先して取り入れ、高齢者が安心して働ける環境を整えることは、単なる事故防止に留まりません。それは、採用難時代における「シニア層の積極活用」という攻めの人事戦略に直結します。高齢者が安全に働ける職場は、全世代にとっても働きやすい「ユニバーサルデザイン」な職場となり、企業の採用競争力を高めてくれるはずです。
5. 多様化する労働者への安全教育:新入社員、非正規、そして外国人
組織全体の安全意識を保つためには、教育の「網」から誰も漏らさないことが不可欠です。しかし、雇入れ時の安全衛生教育の実施率には雇用形態による乖離があります。
・正社員:55.0%
・パートタイム労働者:35.9%
短時間だから、補助的な業務だからという理由で教育を疎かにすることは、現場に重大なリスクを放置することと同義です。
また、在留資格を有する外国人労働者が働く事業所は全体の19.6%にのぼり、前年(18.4%)からさらに増えています。そうした事業所における外国人労働者への労災防止対策(84.8%が実施)では、現場の知恵が見て取れます。
・母国語や、やさしい日本語による教育:46.3%
・わかりやすい表示や図解の活用(ピクトグラムなど):17.6%
・同じ言語を話せる労働者による教育(OJT):23.2%
・文化的な背景に応じたコミュニケーションへの配慮:28.5%
「言葉の壁」や「雇用形態」によって教育に差をつけないこと。それが、現場の信頼関係を築く第一歩です。外国人労働者の文化的背景まで考慮した教育は、組織全体のダイバーシティ対応力を磨く絶好の機会となるでしょう。
コラム:ガイドラインがあると、現場はちゃんと動く
面白いことに、業種ごとの具体的なガイドラインが整備されている分野では、取組率がぐっと高くなります。「陸上貨物運送事業における荷役作業の安全対策ガイドライン」に基づく措置に取り組んでいる事業所は87.0%、「建設業における労働者の安全の確保に関するリスクアセスメント」は89.8%、製造業における機械のはさまれ・巻き込まれ災害防止は98.8%、林業の「チェーンソーによる伐木等作業の安全に関するガイドライン」は96.6%にのぼります。
つまり、「何をすればよいか」が具体的に示されれば、現場はきちんと対応できるということです。エイジフレンドリーガイドラインの認知度が24.8%にとどまっているのとは対照的な結果であり、逆に言えば、周知の工夫次第でまだまだ取組率を伸ばせる余地があるということでもあります。
6. 労働者の本音:ストレス相談の相手は「産業医」ではない?
企業が提供する相談窓口と、労働者の実態には大きなギャップがあります。
・相談相手(上位):家族・友人(68.3%)、上司(56.6%)
・相談相手(下位):産業医(2.0%)、保健師・看護師(1.1%)
産業医への相談が極めて低い現状に対し、産業医を診断書を書くための外部の人にしてしまってはいないでしょうか。本来、産業医は現場の負担を共に考え、専門的見地から解決策を提案する現場のパートナーであるべきです。
幸いなことに、94.8%の労働者が「相談できる人がいる」と回答しており、そのうち実際に相談したことがある労働者も71.2%にのぼります。人事労務担当者の皆さまは、専門窓口へのハードルを下げる橋渡し役を担うとともに、最も身近な相談相手である上司や同僚へのラインケア教育にこそ、注力する価値があります。
7. 長時間労働と医師による面接指導:形骸化を防ぐために
ここからは、社労士としてあえて厳しく申し上げなければなりません。長時間労働対策における「医師の面接指導」の実態です。月80時間を超える時間外労働があった労働者のうち、実際に面接指導を受けた割合はわずか16.2%に留まっています。
「受けなかった」労働者が76.7%に達している事実は、非常に危うい状況です。業務が多忙だから、本人が希望しないから……といった理由で面接を回避することは、企業にとって致命的なリスクとなります。過重労働が原因で健康障害が生じた場合、企業は安全配慮義務違反(従業員が安全に働けるよう配慮する、会社としての法的な義務を果たしていないこと)を問われ、数千万円規模の損害賠償請求や、最悪の場合は企業名の公表、社会的信用の失墜を招きます。
過重労働対策は単なる事務手続きではありません。社員の命と会社の未来を守るための最後の砦です。対象者には強制的にでも受診を促す、あるいは産業医が現場に入り込みやすい環境を作るなど、人事労務の強い介入が今こそ求められています。
8. 見落とされがちな化学物質管理――SDS交付率の急落に要注意
最後に、あまり注目されないものの、実は見過ごせない領域をひとつご紹介させてください。化学物質を取り扱っている(製造・譲渡・提供・使用)事業所は13.1%。このうち、法律で厳格な管理が求められる化学物質(労働安全衛生法第57条の2に該当するもの)については、リスクアセスメント(化学物質の危険性・有害性を特定し、労働者への健康障害のリスクを見積もって低減策を検討すること)をすべて実施している事業所が67.7%です。
ここで気になるのが、安全データシート(SDS。化学物質の危険性や取扱い上の注意をまとめた文書)の交付状況です。すべての製品にSDSを交付している事業所は49.7%にとどまり、前年の81.4%から大きく下がっています。GHSラベル(絵表示等により化学物質の危険有害性を示す国際的な表示ルール)についても、すべての製品に表示している事業所は66.8%(前年85.7%)と、こちらも低下傾向です。
化学物質を扱う事業所自体は限られているとはいえ、法令で交付が義務づけられている情報がきちんと行き渡っていない状況は、労働災害のリスクだけでなく、法令違反のリスクにも直結します。該当する事業所の担当者の方は、この機会に一度、自社のSDS・GHSラベルの管理状況を確認してみることをお勧めします。
9. さいごに:誰もが安心して働き続けられる企業を目指して
ここまで見てきたデータは、労働安全衛生が組織の文化そのものであることを示しています。
完璧な制度を一度に作り上げる必要はありません。まずは自社のデータを確認し、今回ご紹介した指標と照らし合わせ、自社の偏りを知ることから始めてみてください。それが、現場を変える第一歩になります。
労働安全衛生を充実させることは、単なる守りの施策ではありません。「この会社は自分を大切にしてくれる」という実感は、従業員のエンゲージメントを劇的に高めます。そしてそれは、「健康経営に真摯な企業」という強力な採用ブランディングとなり、優秀な人材を惹きつける最大の魅力となります。
皆さまの地道な取り組みが、従業員の笑顔を守り、ひいては企業の永続的な成長を支えています。私たち社労士も、皆さまの最も身近な戦略的パートナーとして、共に歩み続けてまいります。
出典:厚生労働省「令和7(2025)年労働安全衛生調査(実態調査)」(令和8年8月7日公表)
この記事を書いたのは・・・

社会保険労務士法人エスネットワークス
特定社会保険労務士M・K
事業会社での人事労務キャリアを活かし、社会保険労務士として活動中。労働法をめぐる人と組織に焦点を当てる「生きた法」の実践をモットーとし、専門家の立場からセミナーや講演を通して、企業に“予防労務”の重要性を呼び掛けている。日本産業保健法学会会員