【社エス通信】2026年6月号 定年後再雇用の賃金設計、大丈夫ですか?~名古屋自動車学校事件が示す「新しい基準」~
目次

はじめに:「6割ルール」はもう通用しない
「定年後に再雇用する場合、賃金は定年前の6割以上あれば問題ない」——そう信じていた企業は少なくないと思います。実際、これまでの裁判例を踏まえた実務上の目安として、この「60%基準」は広く使われてきました。
しかし、2026年2月26日に名古屋高裁が下した判決(名古屋自動車学校事件・差戻審)は、この考え方に対してはっきりとした「ノー」を突き付けました。
この判決の最大のポイントは、「賃金をいくらに設定したか(金額の大小)」ではなく、「なぜその金額なのか(根拠の合理性)」が問われるようになったことです。単純な減額率で合否を判定していた時代は終わり、賃金の「中身」を一つひとつ説明できるかどうかが問われる時代になりました。
この記事では、判決の内容をできる限りわかりやすく解説するとともに、人事担当者として今すぐ取り組むべき実務上のポイントをまとめています。ぜひ、自社の再雇用制度を見直すきっかけにしてください。
1.最高裁が変えた「比べ方」のルール
今回の名古屋高裁判決に至るまでの経緯を簡単に振り返ります。
2023年7月、最高裁判所はこの事件の控訴審判決を「審理が不十分」として破棄し、名古屋高裁に差し戻しました。最高裁が問題にしたのは、「6割以上だから問題ない」という判断方法そのものです。
最高裁が求めたのは、基本給や賞与を構成する「それぞれの要素が何の対価なのか」を個別に確認することでした。たとえば——
● 基本給は「仕事の内容に応じた報酬(職務給)」なのか、「勤続年数や能力に応じた報酬(職能給)」なのか、それとも「生活費の保障」なのか
● 賞与には「後払いの賃金」や「これまでの功績に対するお礼」という性格が含まれているのか
こうした「賃金の性質・目的」を丁寧に確認したうえで、再雇用後の賃金との差が合理的かどうかを判断しなさい——それが最高裁のメッセージでした。
この方針を受けて、差戻審の名古屋高裁がどのような判断を下したのか。以下で詳しく見ていきましょう。
2.差戻審判決の中身:何が「違法」とされたのか
(1)基本給の格差が「不合理」と認定された
本件の原告は、自動車教習所の教習指導員として長年勤務し、定年再雇用後も同じ業務を続けていた嘱託職員の2名です。定年後、主任という役職は外れましたが、教習業務の内容や責任の範囲は正規職員と変わりませんでした。
ところが、2人の基本給は定年後に大幅に引き下げられていました。裁判所が認定した状況は次のとおりです。
| 項目 | 原告X1 | 原告X2 | 裁判所の判断 |
| 定年前の基本給 | 181,640円 | 167,250円 | ー |
| 再雇用後の基本給 | 74,677円〜 | 72,700円〜 | 違法 |
| 裁判所が認めた「あるべき額」 | 100,000円 | 95,000円 | 定年前比 約55%~57% |
ただ、裁判所は「100,000円」および「95,000円」という具体的な金額を算出した明確な計算式や客観的な根拠を示していません。判決文において、正規職員と嘱託職員の基本給の性質や、学校側の対応などに関する複数の事情を挙げ、それらの「事情を総合すると」あるべき額がそれぞれ100,000円、95,000円になると結論づけているのみです。
裁判所がこの金額を導き出すために総合考慮した具体的な事情に、「基本給の性質(職務給)と若手社員との逆転現象」があります。正規職員の基本給は年功・職能・職務給の複合的な性質を持つものの「職務給の割合が大きい」と認定されました。嘱託職員の基本給も同様に指導員としての「職務給という性質が大きい」ため、両者は同質であるとされました。それにもかかわらず、経験豊富な嘱託職員の基本給が、年功的性格の低い若年正規職員や資格取得直後の正規職員の基本給を大きく下回っていることは不合理であると指摘しています。
(2)賞与にも「違法」の影響が及んだ
本件では、賞与(嘱託職員一時金)についても不合理と判断されました。なぜ賞与まで問題になったのでしょうか。
裁判所は、正規職員の賞与が「基本給に一定の掛け率をかけて計算される部分」を含んでいることに注目しました。この仕組みは、賞与の一部が「その期間に働いた分の後払い賃金」だと見なされます。
そのため、「基本給が不合理に低い ⇒ 基本給に掛け率をかけて計算される賞与も不合理に低くなる」という連鎖が生じました。基本給の設計ミスが賞与にもダメージを与えるという、二重のリスクが現実のものとなったのです。
(3)「総額で8割あれば大丈夫」は誤解
原告X2の年収総額(給与+各種給付金+年金)は定年前の約80%に達していたにもかかわらず、基本給単体の不合理性が認められました。
実務の現場では「年金や各種給付金も含めた年収総額で8割程度確保できていれば問題ない」という考え方が広まっていました。しかしこの判決は、それを明確に否定しました。
判断の対象は「各賃金項目の性質と金額が合理的かどうか」であり、年金などの社会保険給付を加味した「合計の収入」ではありません。人事担当者はこの点を強く認識しておく必要があります。
3.判決が厳しく批判した「説明できない会社」の姿勢
今回の判決が示したもう一つの重要な教訓は、賃金水準の問題だけではありません。会社側の「対応の姿勢」そのものが、裁判所に厳しく批判されました。
労働組合から「なぜその賃金なのか説明してほしい」と求められた際、会社側は次のような対応をとっていました。
● 「質問の趣旨を計りかねる」として具体的な回答を拒否した
● 「定年前と同じ待遇にすると若手職員の士気に影響する」という根拠のない主張を繰り返した
裁判所はこれを「誠実に協議しようとする姿勢が見られない」と批判し、賃金格差が不合理であることを裏付ける「その他の事情」の一つとして採用しました。
逆に言えば、誠実な協議のプロセスと合理的な説明があれば、仮に賃金水準が完全ではなくても、違法との判断を免れる可能性があるということです。「なぜその金額なのか」を説明できる準備が、法的リスクを下げる最大の防御策になります。
4.人事担当者がいま取り組むべき3つのこと
この判決を踏まえ、自社の再雇用制度を見直す際に優先して取り組むべきポイントを3点にまとめます。
① 自社の基本給が「何の対価か」を整理する
まず確認すべきは、自社の基本給の性格です。
● 職務給:担当している仕事の内容・難易度に応じて支払う
● 職能給:本人の能力・スキル・勤続年数に応じて支払う
● 生活保障給:生活費を補完するために支払う
これらが混在していることも多いですが、就業規則や賃金規程に「何のために支払う賃金なのか」が明記されていないケースも少なくありません。
定年後に賃金を引き下げる場合は、「役職がなくなった分の役割給をカットした」「定年後は職務の難易度や責任の幅が変わるため、それに応じて職務給を見直した」といった説明ができる根拠を整えてください。「再雇用だから下げる」という理由だけでは、もはや通用しません。
② 若手社員の賃金との比較を必ず行う
今回の判決のもっとも具体的な教訓は、「再雇用者の基本給が、同じ仕事をしている若手正社員を下回っていないか」という点です。
自社の初任給や入社1〜5年目の正社員の基本給と、再雇用者の賃金を比較してください。経験豊富なベテランが新人以下の賃金で働かされている状況は、裁判所から「不合理」と判断されるリスクが高くなります。
③ 労使協議のプロセスと記録を整備する
賃金の水準だけでなく、「どのように決めたか」というプロセスが重要です。以下のような取り組みが、法的リスクの低減につながります。
● 再雇用時の賃金設定の根拠(職務内容の評価、他の雇用区分との比較、経営状況など)をデータや資料で整理する
● 労働組合や本人からの質問・要望に対し、具体的な根拠をもとに丁寧に説明する
● 協議の経緯や説明の内容を記録として残す(議事録、メモなど)
「なんとなく慣例でそうしてきた」「他社もそうしているから」という理由では、裁判所に対して正当性を主張できません。エビデンスに基づいた説明と誠実な対話こそが、最大の法的防御になります。
5.「ジョブ型」推進と定年後再雇用の矛盾に注意
最後に、近年多くの企業が取り組んでいる「職務給(ジョブ型)」への移行と、定年後再雇用の賃金設計の関係についても触れておきます。
職務給は「同じ仕事をするなら、同じ賃金を払う」という考え方に基づいています。この仕組みを導入した場合、定年後も同じ職務を担当する再雇用者に対して「再雇用だから賃金を下げる」という理由は通用しにくくなります。
「ジョブ型を導入したのに、同じ仕事をしている再雇用者だけ賃金が低い」という状況は、まさにこの判決が指摘する「不合理な格差」そのものになりかねません。
職務給の導入を検討・推進している企業は、定年後再雇用者の処遇も同時に設計し直すことを強くおすすめします。片方だけを進めると、かえってリスクが高まるケースがあります。
まとめ:「なぜその賃金か」を説明できる制度に
今回の判決が示したこと
「定年前の6割以上」や「年収で8割確保」といった数字の基準は、もはや安全の保証にはなりません。
裁判所が問うのは「各賃金項目の性質に照らして、その金額に合理的な根拠があるか」です。
そして、その根拠を「誠実な対話」を通じて従業員に説明できているかどうかも、重要な評価ポイントになります。
自社の再雇用制度を「法的リスクを避けるための最低限の対応」として捉えるのではなく、「働く人が納得できる仕組み」として積極的に整備することが、長期的な観点からも組織の力を高めることにつながります。
ベテラン社員の経験や知識を活かし続けることは、企業にとって大きな財産です。公正で透明性の高い再雇用の仕組みこそが、その財産を活かす土台になります。
今すぐ確認!自社の再雇用制度チェックリスト
以下の項目を確認してみてください。一つでも「いいえ」があれば、見直しが必要です。
□ 自社の基本給が「何の対価か」を就業規則や賃金規程で説明できる
□ 再雇用者の基本給が、同じ仕事をしている若手正社員を下回っていない
□ 賞与の計算方法(特に基本給連動部分)が正社員と合理的な差になっている
□ 「年収総額8割」ではなく、各賃金項目ごとの合理性を説明できる
□ 賃金設定の根拠をデータや資料で整理している
□ 労使協議のプロセスと内容を記録に残している
【ご相談・お問い合わせ】
定年後再雇用制度の見直しや賃金設計のご相談は、弊社にお気軽にご相談ください。賃金規程や協議プロセスの整備についても、個別にサポートいたします。
※ 本記事は2026年5月時点の情報をもとに作成しています。今後の判例・法令の変化によって内容が変わる場合があります。個別事案については必ず専門家にご相談ください。
この記事を書いたのは・・・

社会保険労務士法人エスネットワークス
特定社会保険労務士M・K
事業会社での人事労務キャリアを活かし、社会保険労務士として活動中。労働法をめぐる人と組織に焦点を当てる「生きた法」の実践をモットーとし、専門家の立場からセミナーや講演を通して、企業に“予防労務”の重要性を呼び掛けている。日本産業保健法学会会員