【社エス通信】2026年4月号 【新任人事担当者へ】人的資本可視化が切り拓く、日本経済の未来と私たちの使命
目次

1. はじめに:新しい時代の人事担当者としての第一歩
この春から人事の世界へ足を踏み入れた皆さま、心より歓迎いたします。
人事は、組織の「過去・現在・未来」を支える非常に奥深い仕事です。かつての人事の役割は、いかに効率よく「人件費」という固定費を管理し、法規制を遵守して組織を維持するかという「管理部門」の側面が強調されてきました。しかし、その定義は今、根底から見直されています。「人的資本経営」が叫ばれる現代において、人事は経営戦略の中心に立ち、人材という最大の経営資源を投資によって輝かせる「戦略部門」へと進化しなければなりません。
人的資本経営とは、従業員の能力・スキルを資本(人的資本)とみなし、人的資本を通じて企業価値を高める考え方です。物的資本中心の時代から、知識・経験など無形資産が価値創造の源泉となる時代となり、人材への投資が重視されています。日本では経済産業省の検討会報告書である「人材版伊藤レポート」が契機となり、人的資本経営への注目が高まりましたが、単なるスローガンに終わらせず、実効性ある取り組みが課題となっています。
さて、政府は「企業内容等の開示に関する内閣府令」を改正し、 2026年3月期から、企業戦略と連動した人材戦略や、それを踏まえた従業員給与等の決定方針を具体的に開示することを義務付けました。これは、データと論理に基づいて「人への投資が、いかに企業価値を高めるか」を証明し、可視化することが不可欠になったことを意味します。
本稿では、政府の「人的資本可視化指針(改訂版)」を羅針盤に、なぜ日本が今この変革を必要としているのか、そして皆さんが人事としてどのような視点を持つべきかを深掘りします。データに基づいた客観的な視点を持つことは、経営陣の対等なパートナーとして歩み出すための第一歩です。皆さんが向き合うのは単なる事務仕事ではありません。一人ひとりの可能性を解き放ち、日本経済の停滞を打ち破るための社会的使命です。
2. 世界から取り残される日本投資:無形資産の重要性
グローバル経済における企業の競争力は、今や「目に見えない資産(無形資産)」の量と質で決まります。この認識の差が、現在の日本と世界の成長力の差となって如実に現れています。
企業価値の劇変:S&P 500が示す現実
米国市場を代表する株価指数であるS&P500の構成銘柄を見ると、その企業価値(時価総額)の内訳は驚くべき変化を遂げています。1975年には時価総額のわずか17%に過ぎなかった無形資産の割合が、2020年には90%に達しました。つまり、現代のトップ企業の価値の9割は、特許やブランド、そしてそれらを生み出す「人」という無形資産によって構成されているのです。
投資停滞という日本の危機:R&Dの内訳に見る弱点
残念ながら、日本はこの潮流から大きく取り残されています。各国の人的資本投資(OFF-JT費用)の対名目GDP比率を比較すると、英国の1.75%に対し、日本はわずか0.22%と極めて低水準です。さらに深刻なのは、イノベーションの源泉である「研究開発費(R&D)」の内訳です。研究開発費全体に占める「人件費」の割合を見ると、米国は61.7%、ドイツは64.4%に達していますが、日本はわずか39.9%に留まっています。日本は研究開発において「人」ではなく「設備や材料」に多くの資金を割いてきたのです。知財を生み出す人への投資を後回しにしてきたこの構造こそが、日本の中長期的な企業価値向上の足かせとなってきました。新任人事担当者の皆さんに強く意識してほしいのは、 「人への投資」こそが日本経済復活の唯一の処方箋であるということです。皆さんが関わる研修制度や報酬体系の整備は、すべてが「投資」であり、企業の未来のキャッシュ・フローを生み出す原動力なのです。
3. 2040年の崖:労働需給推計が示す「質の向上」への転換
人口減少が加速する日本において、労働力の量を確保することはもはや至難の業です。経済産業省の「2040年の就業構造推計」は、私たちが直面する厳しい現実と、進むべき道を鮮明に示しています。
労働の「質」が不足分を補う
2022年に6,706万人いた就業者は、2040年には6,303万人にまで減少すると予測されています。この約400万人の減少をカバーする唯一の手段が、AI・ロボットの利活用とリスキリングによる「労働の質の向上」です。これにより、不足分のうち 約200万人相当 をカバーできる可能性があるとされています。
深刻な「需給ミスマッチ」:STEM人材の欠乏
一方で、現状のトレンドを放置すれば、職種・学歴間での致命的なミスマッチが発生します。推計によれば、2040年にはAIやロボットを使いこなす専門職において 約339万人の不足が生じます。特に学歴別で見ると、 理系の大卒・院卒人材(STEM人材)は124万人も不足する一方で、文系の大卒・院卒人材は76万人が供給過剰になるリスクがあります。これは単なる人手不足ではありません。「企業の存続に必要なスキルを持つ人がいない」という、経営の根幹を揺るがす危機です。今のままの採用・育成トレンドを続けることは、沈みゆく船に乗ることに等しいのです。人事は、経営戦略に基づき、「どの分野で、どのようなスキルを持つ人材が必要か」を予測し、主体的に人材ポートフォリオを組み替えていく戦略的な目利きにならなければなりません。
4. 人的資本経営の羅針盤:可視化指針が示す「依存」と「影響」
では、どのようにして「人への投資」を経営戦略と結びつければよいのでしょうか。その論理的思考の土台となるのが「人的資本可視化指針」であり、その核心は国際基準(IFRS S1)の考え方に基づいています。
「依存」と「影響」の相互作用モデル
指針では、企業と人的資本の関係を「依存」と「影響」という相互依存的なシステムとして捉えています。
①「依存」: 企業が戦略的目標を達成するためには、高度に専門的な労働力が不可欠です。つまり、企業の将来の成功は、その資源を惹きつけ維持する能力に「依存」しています。
②「影響」: 企業は必要な人材を惹きつけ、維持するために、研修や福利厚生、エンゲージメント向上といった投資を行い、人的資本に「影響」を与えます。IFRS S1の適用ガイダンス(B1〜B3)によれば、この相互作用が企業の将来のキャッシュ・フローや資本コストに直接的な影響を及ぼすとされています。つまり、会社が「専門人材に依存しているのに、適切な投資(影響)を行っていない」と可視化されれば、投資家は「この企業の未来の成功(B3)には高いリスクがある」と判断するのです。
人事の役割変革:コストセンターからバリューセンターへ
人的資本の可視化とは、単に数字を埋める作業ではありません。自社の経営戦略を実現するために、「どのような人材が必要か(依存)」、「そのためにどんな投資をするか(影響)」、「それによってどのような成果を得るか」を論理的なストーリー(論理展開)として語ることです。人事は、給与計算や手続きなどを行うコストセンターから、経営戦略と人材戦略を繋ぐ戦略的パートナーへと進化しなければなりません。
5. ステークホルダーとの対話:選ばれる企業になるために
人的資本の可視化は、社外への一方的な報告ではありません。投資家や労働市場との「対話」そのものであり、企業価値を最大化するための強力な武器です。
投資家の視点:独自性のあるストーリー
投資家は、他社と横並びの数値比較ではなく、その会社固有の成長ストーリーを求めています。
●関心の重心:調査によれば、投資家の70%が「人材戦略が企業価値向上につながるストーリー」を重視しています。
●「負のデータ」の価値: 離職率が高いといった悪い数字であっても、その原因と対策を誠実に開示していれば、投資家はそれを「経営管理が機能している証」として評価します。
労働市場の視点:3.4兆円の損失を防ぐ「健康経営」
また、労働市場においても可視化の威力は絶大です。調査によれば、人的資本開示が充実している企業に対して、求職者の約45%が「選考参加の優先度が上がる」と回答しており、情報の可視化は優秀な人材を惹きつける強力な武器となります。一方で、可視化すべき具体的な取組の一つである従業員の健康維持増進についても、戦略的な投資判断が求められています。例えば、女性特有の健康課題を放置することによる生産性低下(プレゼンティーズム)やキャリア断絶に伴う経済損失は、年間3.4兆円に達すると推計されています。健康経営への投資は、単なる福利厚生ではなく、この巨大な損失を回避し、収益を最大化するための高度な経済合理的投資なのです。さらに、専門スキルに応じた報酬体系の整備(ジョブ型人事)や、多様な知を組み合わせてイノベーションを創出するダイバーシティ推進など、全ての施策を「企業価値向上」の文脈で語り直してください。
6. おわりに:新任人事担当者のあなたに託された未来
最後に、人事としての第一歩を踏み出した皆さんに伝えたいことがあります。現在の日本が置かれている状況は、確かに楽観できるものではありません。無形資産への投資不足、人口減少による労働力の激減、そしてスキルのミスマッチ。しかし、これらは裏を返せば、「人事の力が、企業の、そして国の未来を左右する」という、歴史上最もエキサイティングな時代の到来を意味しています。
「人的資本可視化指針」は、決して守るべき堅苦しいルールではありません。皆さんの専門性を高め、経営の視座から自分の仕事を輝かせるための最強の武器です。データという客観的な根拠を持ちながら、人という不確実で無限の可能性を秘めた存在に向き合ってください。
皆さんの日々の仕事——一人の社員の成長を支援し、一項目のデータを可視化し、適切な投資を提案すること——その積み重ねが、停滞していた日本経済のエンジンを再び力強く回す原動力となります。皆さんのキャリアのスタートを心からお祝いします。共に悩み、考え、情熱を持って、強い日本経済の未来を築いていきましょう。あなたの挑戦が、これからの日本の希望です。心から応援しています。
この記事を書いたのは・・・

社会保険労務士法人エスネットワークス
特定社会保険労務士M・K
事業会社での人事労務キャリアを活かし、社会保険労務士として活動中。労働法をめぐる人と組織に焦点を当てる「生きた法」の実践をモットーとし、専門家の立場からセミナーや講演を通して、企業に“予防労務”の重要性を呼び掛けている。日本産業保健法学会会員